人生の折り返し地点に立って想う

人生100年といわれる時代。

40代も終わりに差し掛かっている私は、
人生の折り返し地点に立っている。

家族や仕事についてじっくり考えてみたり、
生き方そのものに悩んだり。

さまざまな経験をそれなりに乗り越えて、
余裕が出てくる年齢だからこその
悩みかもしれない。

しかし、

「このままでいいのか」
「これからどう生きていくべきなのか」
と考えても、何をすればいいのかわからない.

これが正直なところ。

これからの人生を楽しむために、
まずはどのような行動をすればいいのか考えてみることにした。

目次

人生の目的地を設定する

私の人生の目的地、最後の最後はどうなっていたいのか考えてみる。

人生の目的地とは、
言うなれば

「こうなっていたら、もう自分の役目は終わり」
と思えるゴール地点のこと。

ゴールは必ずしも明確である必要はなく、
ぼんやりしていてもいい。
毎日変わってもいい。
そして、いくつあってもいいらしい。

ただ、自分の本音でなければならない。

もう1つ加えると、
それが他者への貢献であるかどうかということ。

なぜなら、
人間は「共同体」の中で生きているから。

つまりは、
この惑星に生きている以上、
自分ひとりだけでは幸せになれないと私は解釈している。

自分自身を受け入れ、
他者を受け入れ、
そして人々に貢献する。
そんな世界に身を置きたい。

さて、私の人生の目的地は?

人生の目的地を真剣に考える作業は、
20代後半で深く悩みなかなか定まらなかった
少し先の目標設定とはちがう。

そもそも「目標」と「目的」はちがうもの。

「目標」は、
現状の自分の延長線上にあるもの。
これは、現状の自分を基準に設定した単なる通過点にすぎない。

風通しの悪い空間から抜け出せなかったあのころ、息苦しくて死にそうだった。

きれいな空気を吸いたい一心で目標を決めた私は、
それなりに必死になって、無事に目標地点に到着。

達成感に浸って自由を満喫していた日々は、
今思い返すとひとつの通過点だったのだ。

「目的」は、
現状の自分のままではたどり着けないもの。
これは、現状の外に出なければ到達できないゴールなのである。

今、自分が乗っている列車が山手線だとすると、
季節は変われど何周もしていたら、見慣れた景色しか巡ってこない。

列車を乗り換えなければ、
景色は変わらないのだ。

上野駅で寝台列車に乗り換えて、
移りゆく景色を楽しみながら
目的地まで行ってみようと思う。

特急列車じゃなくていい。

途中駅の停車時間が長くてもいい。

「こうなっていたら、もう自分の役目は終わり」
と思える目的地までの道のりを、
これから存分に味わうことにしよう。

不要な価値観を手離す

列車を乗り換えて

「今までと違う景色を見に行こう!」

って決めても、なかなか行動できないのが正直なところ。

そう、
私は行動するまでに
ものすごく時間がかかる人なのだ。

小さなことはささっとできるけれど、
対象となるものが大きければ大きいほど、
動けない。

人生の目的地を目指すなんて、壮大すぎる。

「違う景色見たいんだよね?」
って、背中を押す自分と、

「今のままで何が不満なの?」
と強く現状に止まらせようとする自分がいる。

強力な現状維持システムを解除するには、どうしたらいいのだろう。
何が私を思いとどまらせているのだろう。

その正体を突き止めるべく、
形のないものを言語化する作業にとっぷり浸かってみた。

言語化した文字からわかったこと。
それは……

私という人間は、
呆れるくらい心配性で完璧主義者。
そして、どうでもいい価値観を抱え込んでいる。

・失敗してはいけない

・そのための準備を怠ってはいけない

・人に頼ってはいけない

・自分でできることをする

・迷惑をかけてはダメ

そして、これらをキチンと遂行できない自分は
価値がない。

本当にそうなのか?

どうでもいい価値観を、
大切なものだと深く思い込んでいるだけに過ぎないのではないだろうか。

子どものころ、
ピアノの発表会で失敗しないために、
必死で練習していた記憶が蘇ってくる。

先生を落胆させないために、
間違えたときの母親の悲しい顔を見ないために、
準備は怠らなかった。

社会人になってからは、
周りに迷惑をかけるのがどれほどダメかを
叩き込まれてきた。

任された仕事は、
見落としがないように何度も確認し、
上司に書類を渡したあとは
お叱りを受けないか、
ドキドキしながら次のやるべき仕事に取りかかる日々だった。

多かれ少なかれ、誰だってよく似た経験をしてきただろう。

しかし、
今はもうピアノの発表会もなければ、
上司だっていない。

40代が終わるというのに、持ち続けるべき価値観なのだろうか?

きっともう、手離していいはず。

自分の体にべったりと貼り付いた価値観は、
私にとってはものすごく重い鉛のような感覚。

これが現状維持システムの正体。

解除すれば、
私の体はふわっと軽くなって浮かび上がるのだろう。

私の人生は私のもの

人生100年時代、折り返し地点に私はいる。

まだまだたっぷり時間はある。
とはいっても、迷ってばかりではいられない。

大きく道を踏み外したことがなく、
与えられた枠内にきちんと収まり、
いわゆる「普通」の人生を歩んできた私。

親の言う通りにしていれば、
お利口さんに振る舞っていれば、
自分の居場所はある。

そんな風に思っていたっけ。

大嫌いだったピアノのレッスン、
やらされてた感たっぷりの受験勉強。
反発すれば
母からどんな言葉が返ってくるか予想ができた。

反発心が出てきたら、

「言っても無駄だよ」

そう自分に言い聞かせて
おしまいにする。

大人になって、
家を出て、
私の人生から少しづつ育った環境を切り離して、
自由を満喫して来たけれど、
だからってスッキリしたわけではない。

それが今、どういうことなのかわかってきた。

子どもが不登校になって「私の問題」が浮き彫りになってきた。

いろんなことをこじらせて、
遠回りして、
立ち止まって、
後退して、
やたらと時間はかかったけれど、
現状から出たいと心底思う。

逃げるのではなく、
拒否するのではなく、
なかったことにするのでもなく、
自分が創り出したすべての過去を財産にして。

「私の人生は私のもの」

教えてくれた子どもたち、ありがとう。

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